高卒フリーターから就職までの道のりと年収600万円を超えるまでの軌跡

高卒でフリーターになることを選択したことで、20歳手前からしくじり人生を送ってきた。しくじりというか、挑戦せずに出来ない(やれない)理由を探して逃げてばかりのダメダメ人生。

そんなダメダメ人生をどうにかしようともがき続け、現在はどうにか年収は600万円を超えている。

高収入の人からすれば

え?600万円で?ウケるwww

だろうが、高卒フリーターとって【年収600万円】は大きな壁であることは間違いない。実際に辿り着くまでの道は本当に長かった。

そこで今回、高校卒業後から振り返り、高卒フリーターから就職するまでの道のりに加え、年収600万円に到達するまでの軌跡を残してみることにした。

「お前程度でも何とかなるんだ」という温かい目で見て頂くと幸いである。

高卒フリーターから就職までの道のりと年収600万円を超えるまでの軌跡

2000年:高校卒業後の進路は未定

高校生の頃は全く勉強しなかったので、担任からは半ば諦め気味に「専門学校か就職するかだね」と言われていた。本当に勉強していなかったので、教科書が非常にキレイな状態を保っていたことはよく覚えている。

同級生や友人らが高校卒業後の未来に目をギラギラさせている中、私は無気力で何もする気が起きずに“進路未定”で卒業した。

要はフリーター、無職だ。

これが人生最初の逃げ

ここから堕落生活のはじまりはじまりぃ~。

卒業後の半年は本当に酷かった。前日寝るのが遅いので起床は11時頃、家にあるパンを食べてプレステで遊び、飽きたらコンビニに行って週刊誌の立ち読みという生活。腐った生活は自分でも「マズイな・・・」とは思っているものの、堕落した生活を送ってしまうと「よし!頑張ろう!」とはならない。

自分の部屋が用意されて食べる物にも困らず、毎日温かいお風呂に入ってフカフカの布団で熟睡できていたので、存分に親のすねをかじる生活を送ってしまっていた。

 

2000年7月:アルバイト開始

夏を迎える頃に貯金が1,000円に。誤字ではなくて本当に1,000円のみ。友達と遊ぶ金もなくなり、遂に動くことを決意する。

とはいえ、スキルもやる気もないダメ人間が若さだけで正社員になれる程甘くはなかった。

当時は就職氷河期真っ只中で、大学生ですら内定を貰うのに苦労している中、ダメ人間を雇う企業などなくて当然だ。

そこで作戦変更。長期で働けるアルバイト先を見つけ、そこを起点に就職先を模索することにしたのだ。就職活動するにもお金かかるし、面接時に何かアピールすることも必要だしという目論見もあった。

最初に受かったアルバイト先は携帯ショップのHIT SHOP。6日間本社と店舗で研修を受け、その後配属先が決まるという流れ。

しかし、店舗研修2日目のお昼休み中に「辞めたいなあ」となり、会社に連絡して帰ってしまった。次に見つけたのがパチンコ店のオープニングスタッフ。3日間の研修を受け、実際に店舗に入ってロールプレイングする前に貰った制服を見て、、、「辞めたい」となり、翌日辞めた。

なんだそりゃ……とは自分でも思う。ただ、一度「辞めたい」となると、もう辞めることしか頭に浮かばなかったのも事実で、ポジティブに捉えれば切り替えは早かった。

2社続けて直ぐに辞めたことで得たものもある。それは、僅かなお駄賃と人前に出るのが苦手ということ。あがり症で人とうまく話せず、そもそも人と話すのが面倒という性格なので、同じよう仕事を選んでも続かないだろうという予感。この時点で接客業を外すことにした。

次に見つけたのが写真の印刷会社。怖い人や変な人が多くて不良高校に来たような気持ちになったが、業務中は会話が少なくて休憩中も静かという環境は向いていた。一ヶ月もする頃には会社にも仕事にも慣れ、初めて給料らしい給料を頂くこともできたのだ。稼いだ金額は時給750円×8時間×22日=13万円前後に加え、残業代や繁忙期の休日出勤などが重なり、15万円程。

そんな生活を1年と少し経験した頃、今度はこんな感情が芽生えてくる。それは、『もっと稼ぎたい!』というシンプルな気持ち。親を安心させたいという気持ちも少なからずあったと思う。また、アルバイト生活では先がないことや印刷業界の不透明な未来もあり、いよいよ就職活動に本腰を入れることにした。

その決断をしたのが、同級生の大学生が社会に出る1年前の春、21歳。「遅い」という意見もあるだろうが、回り道をして答えを探す自分のスタイルはこの頃から定着した。まさに「急がば回れ」。やかましいわ。

 

2003年:初の正社員

面接は当然苦戦する。

今までアルバイトしかしてないので、強みやアピールは弱く、そもそもきちんとした面接経験も初めて。『Office使えますか?』という質問に『はい、使えます!』と、答えたものの、高校時代に多少WordとExcelに触れた程度で仕事になるレベルではないのは自分でも分かっていた。ただ、どんなに落ちてもめげずにチャンレンジをし、何とかサプリメントを扱う通販会社に就職を決めた。

Photo by Elliot L’Angelier on Unsplash

ようやく社会人になれるんだと実感したことを覚えている。内定の電話を貰った時は本当に嬉しかった。

が、現実は無茶苦茶しんどかった。まずは上司。とにかく怖かった。些細なミスでも激怒し、都度会議室に呼ばれて再発防止策の提示をしなければならず、先に帰る(例え23時でも)と睨まれてばかり。

次に業務量。業界内ではベスト5には入る人気店だったので受注量が恐ろしく、とにかく仕事が終わらない。土日明けの月曜なんて注文処理だけで夜中まで仕事なんてことも珍しくなかった。

それでも辞めなかったのは、高卒後に送ったクソ生活の影響が大きい。あんな生活に戻れない・戻りたくないという気持ちが、自分自身を支えてくれた。過去のネガティブな経験も、考えようによっては未来の自分を支えることだってある(単純に無収入にはなりたくなかっただけ)。

キツい仕事を耐える日々も気づけば5年目に。26歳だ。この時期、嫁となる彼女にも出会えた。給与も手取で25万円まで到達し、ようやく年収300万円台に。誰がどう見ても普通のサラリーマンという暮らしを送っていた。

しかし、今度はこんな感情が芽生えてきてしまう。

それは、、、楽したい!

上手く立ち回ってきたつもりだったが、朝から晩まで働く生活に心も体も限界がきていたのだ。日曜の夜、彼女に泣きながら電話したことは一度や二度ではない。振り返ると相当病んでいた。体が悲鳴をあげなかったことだけは不幸中の幸いか。

しかし、一度『逃げ出したい!』と考えると止まらないのが私である。徐々に会社の全てが嫌になっていった。どうでもいい朝礼、上司のゴマすりしかしない社員、22時から始まる会議、興味のない商品…その全てがどうでも良くなってしまう。とはいえ、過酷な環境で限界も近づいてきたこともあり、直ぐに別の会社で働きたいとも思わず、無職も避けたい。そんな私の願いを叶えてくれたのが職業訓練だった。条件を調べると問題なさそうなので、退職して職業訓練行きを決意する27歳の春だった。

MEMO
職業訓練とは、学生でいる間は失業保険を貰い続けることができる素晴らしい制度

 

2009年:職業訓練校入学

Photo by Feliphe Schiarolli on Unsplash

私が通ったのはコンピュータ制御の1年コース。似たようなコースで2年もあったが、彼女との同棲も頭に入っていたので2年は長いかな?となり、1年コースを選択する。

通っていた当時に支給されたのは、基本手当(失業保険と同額)、受講手当(私が通っていた当時は1日500)、通所手当(定期代)の合計約18万円程。実家暮らしということもあり、生活は余裕だった。

【職業訓練体験談】失業保険の給付を在学中受けられて昼食代や資格取得も可能って本当?|コース・失業保険・試験・学校生活・進路

朝は少し早めだったが、16時過ぎには学校を出れるので、久々にゆとりある生活を送ることができた。社会人になってからは忘れていた夏休みというやつも14日間もある。一度でも社会に出た人にとっては至福の時間であるし、休みでお金もらえるなんてサイコーしかない。

なお、勉強はしない。そもそも本気で授業を受けようというより、一年間楽したかっただけ。冬休みを迎える頃には少しずつ就職先が決まった人達が辞めていき、徐々に焦りも生まれる。この時点で少しだけ『あー2年コースにしておけば……』と思っていた。

高校の時と違って「未定」で卒業するわけにもいかないので、消去法で経験ある通販関連に絞って就職活動をし、何とか卒業間近の3月に就職先を決めることができた。

 

2010年:金欠の始まり

彼女(現嫁)と職業訓練が終わって再就職したら同棲する予定だったが、簡単には事は進まない。

Photo by Imelda on Unsplash

ある日の朝、父が家のトイレで倒れていた。直ぐに救急車を呼び病院に直行して検査を受けると、ストレスによる胃潰瘍との診断が。

昔はあんなに元気だった父が・・・よりも気になったのが入院費用。家にはお金がないいことが分かっていたので、私個人の貯金を切り崩すことにした。当時同棲に向けてお金を貯めていたので痛い出費だったが、今まで家族に対して何もしてこなかったという負い目もあったので仕方なし。父は2週間程で退院し、その後私の同棲生活がスタートするが、ここから本当の金欠生活の始まりだった。

お金がない!

彼女との同棲が開始した。当時の給料は手取りで20万円程で、家賃6.3万円、定期代1.5万円、水光熱費で2万、携帯代1万、保険代1.5万、ネット代5千円で、毎月使えるお金は約7万円。食費や日用品は、外食費除き彼女にお願いしていた。

決して困るような状況ではないようにも見えるが、上記金額はあくまで見込み部分のみで、実際には『自由に使える金少ねえ……』となってしまっていた。父の入院費用で貯金もほぼ0。1万円以上する買い物はリボ払いする癖がつくように。

リボ払いって本当ダメで、どんどん膨らんできてしまう。最初は月5千円程だったのが、次第に2万、3万と増加。それでも一括で払えるお金がないので、欲しいものがあるとリボ払いを選んでしまう。今考えればどうでもいい洋服ばかり買ってしまっていた。

リボ払いは便利だけど借金だ。

この悪循環を抜け出すため、リボ払いの停止&転職して給料を上げることにした。まず、リボ払いを止め、ボーナスで残額の返済をした。そして転職。通販会社に限界を感じ、もっと広く活躍できる場所への転職を考える。そして、タイミングよく通販も行っているマーケティング会社へ転職することに成功した。

もう33歳にもなっていた。

 

2014年:スタートライン

マーケティング会社の転職は大成功。面白い案件が舞い込み、新たな知見や発見があり、充実した日々送ることが出来たのだ。恥ずかしながら、仕事をして「楽しいな」と思えるようになったのは人生初である。いや、もしかしたら初めての30万円超えの給料が嬉しかったのかもしれない。

他の人なら20代で立つだろうスタートラインに、30歳過ぎてようやく立てることができた。

Photo by Cupcake Media on Unsplash

マーケティング会社での給料は手取で35万円。悪くない数字だ。ただ、妻に給料ー家賃を引いた金額のほとんどを渡す約束になり、手元に残るのは約5万円弱。この5万円から定期代やスマホ代を引くと、友人との食事でさえ「飲み代くださいな」と懇願せねばならず、これはこれでストレスだったのだ。人ってワガママだね。

すると、今度はこんな感情が芽生えてくる。

『もっと稼ぎたい!』

ただ、私のスキルでは現状でも十分高待遇なことは痛いほど分かっていた。また、数ある応募者の中から私を採用してくれた社長にも恩があり、離れたいとも思わず。そこで、代表も実践している兼業という考えに辿り着く。兼業している社長なら分かってくれるだろうと、減給(35万円→25万円)を提示して提案したところ、快く容認してくれた。

 

2016年:兼業生活開始

転職サイトやコンサルティングサービスの力を借り、週3日(2日はフル勤務、2日は半日)で25万円の案件を獲得することができた。業務内容は不動産会社のWebマーケティング。これで本業と合わせて手取は約50万円

遂に年収600万円突破した瞬間である。この頃で既に36歳。「600万円程度でワロタwww」と言われそうだが、こちとらスタートが大幅に遅れたので、これでも喜ばせて欲しい。

注意
不動産会社との業務委託契約は2019年の夏に切れ、その後はクラウドワークス等で小さい案件をちょいちょい受けている程度になった

 

まとめ

業務委託先はいつ契約を切られても文句は言えず、現在の収入がいつまで続くかは分からない。ただ、それは会社員でも同様だ。その時はその時。嫁にはブーブー言われそうだが、高卒以降のダメダメ生活を送ってきた影響で、多少のことでは動じないメンタルは武器だろう。

もし、私と同じように「自分はダメ人間」と思っている方がいたら、そのダメさを無理に改善しようとせず、プラスになるよう行動していこう。私の場合は逃げること=ダメな自分ではなく、『向いていない』と、ポジティブに考えるようにした。

ある程度年齢を重ねて分かったのは、どんな経験も後々活かせれば失敗ではないということ。今だって『あーもう本当最悪だ……』とか『仕事辞めてぇ』なんて日もある。私のようなダメ人間は一生付き合っていくことだろう。そんな時は『仕方ない、別の方法考えるか』程度でいい。今までもそうだったし、これからもきっとそうだ。

高卒フリーターとして社会に出て、年収600万円を超えたところまでお伝えした。年収600万円超えを果たせた要因は、何でも良いので正社員の経験を積み、同じスキルが活かせる業界に移れたことだと思う。業界が同じでも会社によって評価は違うし、動いてみないと分からないことが多い。私がそのことに気づけたのが、”嫌なら逃げる”という超絶自己中な悪癖のお陰とも言える。

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